千々にくだけて

千々にくだけて (講談社文庫)

千々にくだけて (講談社文庫)

911を題材にした私小説的な作品、「千々にくだけて」とその後日談、「コネチカット・アベニュー」。
911前後の体験を記した「9・11ノート」。
母親と知恵遅れの弟、そして主人公を軸として家族史を描いた「国民のうた」を収録。
表紙折り返しの著者略歴には、

1950年アメリカ・カリフォルニア州生まれ。少年時代から台湾、香港などに移住し16歳から日本に住む。
(以下略)

とある。
収録作のうち、911関連の三作品も非常に興味深いのだが、「千々にくだけて」に先立つこと七年前に公表された「国民のうた」がより著者のパーソナリティをわかりやすく表明しているので、そちらのほうから言及することにする。
「国民のうた」の主だった登場人物は主人公の「かれ」とアメリカ人の母親、それに、知恵遅れの弟。
「かれ」は日本に移住してから何十年もたち、年に一度実家に帰る暮らしを続けている。NYからワシントンにいくメトロライナーの中で乗客がほとんど「ガイジン」であることに違和感を覚え、日本語で思考してから頭の中で英語(アメリカン)に翻訳して発言することもままあるほど、意識は日本化されている。
「かれ」と表記され、一人称ではないものの、素直に著者の分身とみていいだろう。
その「かれ」がニューイヤー・シーズンに帰郷し、何かと周囲の風景を日本と比較しながら実家に赴く導入部、すでに中年の域に達している知恵遅れの弟と、その世話をし続ける老いた母との会話……などの間に、するりするりと「かれ」の回想が入り込む。
日帝時代の遺物である広大な邸宅に住み、四声を話す人々に囲まれ、国民党の老将軍が父親を訪ねてくる……ような、少年時代。
離婚した母とともにアメリカに帰り、以前の邸宅よりずっと狭い家に住むことになり、……といったエピソードには、必ず、まず「言葉」が張り付いている。
それは、発語の抑揚であったり、漢字の字体であったり、家に残っていた日本の雑誌やレコードにしるされた活字や再生された日本語の歌、弟が発する奇声……テレビやラジオから断片的に伝えられる、その時代時代を象徴するキーワード。
「かれ」自身が英語で思考して日本語に翻訳をしたり、その逆をしたり……といったことを日常にする背景としてみても、とてもリアリティがる。
やはり私小説的な趣のある「千々にくだけて」、「コネチカット・アベニュー」、「9・11ノート」には腹違いのものも含め何人かの妹が登場するが、弟は登場しないので、「国民のうた」の弟には実在のモデルはいないのかも知れないが……その弟は、「かれ」と「かれ」の一家が直面している理不尽さを体現する存在としてうまく機能している。
「千々にくだけて」、「コネチカット・アベニュー」はフィクション、「9・11ノート」はノンフィクションという違いはあれど、どれも911事件前後を描いたもの。読み比べてみると、フィクションである前者がどれほど著者自身の経験に基づいたものであるのか、比較することができる
そこで浮き彫りにされるのは、突発的なテロ、という信じがたい事件に直面して、なかなか適応できず右往左往する人々の姿であり、NY行きの飛行機に乗りながらも直前で入国許可が下りず、カナダで降ろされ無為に数日を潰しながら事件の全容を知りっていき、アメリカや街の人々の反応を冷静に観察する主人公の思考である。
家族やアメリカ、東京との距離。
演説やミサで使用された語句への違和感。
なかなか連絡がつかない家族。
これが、「アメリカや英語に違和感を持つアメリカ人」の視点で描写されていくわけで……これはやはり、日本語で書かれて読まれないと、あまり意味のないタイプのテキストだよなぁ……。
ページ数的にはあまり厚くない本だけど、じっくり時間をかけて咀嚼して欲しい一冊。