#45

定年退職後、散歩が趣味になった。
不調法なもので、他の遊びをあまり知らない、ということもあったし、それ以上に金がかからなくて健康にも、いい。
なに、ようは、無趣味jな老人が無聊を慰めて徘徊しているだけの話しだが、いつだったか、普段持ち歩いている携帯にカメラが付属していることを思い出し、路傍の何気ない風景を撮影するようになった。いい年の老いぼれが上着のポケットにいれた携帯を握りしめ、落ち着きなく周囲を見渡しながらほっつき歩いている、という図なわけだか、この年齢になるとよほど珍奇な振る舞いでもしなければ、人目を集めることもない。
そんな孤独な楽しみにひたるようになったある早朝、思いがけず、交通事故に出くわした。
それらしい物音を聞きつけたわたしは、素早く携帯を取りだして、音が響いた方角へと走り出す。
音が近かったので、さては、とは思っていたが、曲がり角と二つほど曲がったところで、大型のバイクが横転し、少し離れたところに、ライダースーツとフルフェイスヘルメット姿の人物が投げ出されていた。
わたしは、予期せぬ椿事に動悸を速めながら、「大丈夫ですか?」などと、ぐったりと横たわっているライダーに声をかけながら、立て続けにその写真を撮り続ける。年甲斐もなく、興奮していた。
わたしは、一旦撮影を中止し、119番に電話をし、この場の様子とここの住所を伝え、電話を切った。折り返し、向こうからわたしの携帯に電話がかかってきて、悪戯ではないことを確認し、至急、緊急車両を向かわせてくれる、と、約束してくれた。警察には、同時に連絡がいくシステムになっているので、改めて報せる必要はない、とも、釘を刺される。
救急車を待つ間、再び写真を撮りまくりながら、それとなく周囲を観察すると、そのバイク以外の歩行者も車両も見あたらない。早朝、という時間帯であれば、それも不自然ではないのだが……では、何故、このバイクは横転したのだろうか? という疑問が、まず思い浮かぶ。
ライダーは、低く呻いているだけで、わたしの呼びかけには答えようとしない。おそらく、意識がないのか、意識があったとしても、まともな発言をできるほどに、身体の自由が回復できていないのだろう。ライダーのヘルメットの、顔面を覆っているプラスチックが、破砕されていた。めだった出血はないようだったが、頭部にこれだけの衝撃を受けているようだと、かなり危ない状態なのかも知れない……と、思いつつ、わたしはその様子を携帯に付属したカメラに収め続ける。
不謹慎なようだが、そんなことでもしていなければ、救急車が到着するまでの間、平常心が保てそうもなかった。
「にゃあ」
そんなことしていると、唐突に、覗き込んでいた液晶画面に、猫の顔がどアップになって映った。
「どーもですにゃ」
思わず怯んで身をすくませると、その猫は、ひょい、と二本足で立ち上がり、ぺこり、とお辞儀をする。
「それにしても、ご老人。余命幾ばくもないこの方に、あまりにも不作法な仕打ちではございませんか?」
いっていることはもっともらしいが、直立した猫に話しかけられている、という事態そのものが、限りなくうさんくさい。しかもよく見るとその猫は、片耳がちぎれかかって、べろん、と垂れ下がっている。
「面妖な」
動転して、おもわず時代がかった物言いを返してしまった。
「そっちこそ、頭から血を流しているではないか。さては、この事故もお前の仕業か?」
「どちらかというと、被害者ですにゃ」
その猫は、目を細めてゆっくりとかぶりを振る。
「轢かれそこなって、逃げそこねたのですにゃ。耳を一つ駄目にしたのは災難ですが、命あっての物種ですにゃ」
その猫がいうことを信じるとするならば、このライダーは、この猫を避けるためにハンドルを切り損ねて、横転でもしたのだろう。
「それよりも、ご老人。
死にかけのこの人を、何枚もしつこく撮影しましたね?」
猫は、細めた目で、わたしを睨んだ……ような、気がした。
「この人の魂のかなりの部分が、その写真に吸われてしましましたですにゃ」
わたしは、ぎょっとして腕を伸ばし、手にしていた携帯を遠ざける。
「そりゃ……呪われる、とか、取り憑かれる……とか、そういうことかね?」
恐る恐る、猫に尋ねてみた。
「行きずりのあなたに、この人が、何の恨みを持ちましょうか?」
猫は、もったいぶった口調でそういって、にゃあ、と鳴いた。
「ただ、魂の幾分かを吸われてしまったおかげで、この人は、この場に迷ってしまうことでしょう。そのことをご注進すべく、この場に参上した次第……」
この時、救急車のサイレンが聞こえてきて、猫は口上の途中であるにもかかわらず、ぱっと身を翻して走り去ってしまった。
ライダーは、そのまま救急病院に搬送されるものの、数時間後に息を引き取った。わたしは、簡単な事情聴取をされただけで解放。その猫には、二度と邂逅することはなかった。
数日後から、早朝の時間帯、その事故現場にライダースーツの幽霊が出没する、という噂や目撃談が流れはじめる。
わたしはといえば、携帯で写真を撮ることをぷっつりと止めた。


はてなハイク超短編より転載。