マスレベル、ネタレベル、「品質」

http://fladdict.net/blog/2007/11/post_113.html

僕の私見になるが、コンテンツにとっての品質という概念の価値は、「品質の高い商品はより多くの人間の注意を引く、興味を喚起する」という点にある。つまり、品質が高ければ高いほど、多くのユーザーがそのコンテンツを高く評価する可能性が高まるということだ。リーチ率に直結している。それが品質の機能であり価値。


つまりコンテンツの「品質=価値」という原則は、「顔の見えない大多数の大衆に対し情報発信しコミュニケーションしリーチする必要がある」、という前提があって初めて成立する。

逆を言えば、パーソナルなコンテンツになればなるほど、品質というツールに頼る必要なしにユーザーを喚起できる。 運動会の動画とか、学際バンドの演奏などはその顕著な例だ。品質をともなわなくても仲間内では十分に受け入れられる。 

ゆえに、ネットや携帯電話等によって特定のコミュニティへのピンポイントなリーチが可能になればなるほど、「品質」の持つ、不特定多数にリーチさせる機能の必要性はなくなっていく。つまり品質という概念の価値が相対的に減少していく。こういう現象が、現在ネット上で徐々に起こり始めているのではないか?というのが僕の考え。


芸術的な映画や音楽会や絵画のようにそれそのものの鑑賞の主目的にとなるコンテンツ、あるいはファッションや車のように社会的階級やセックスアピールとして機能する、自己プレゼンテーション用の装置においては「品質」というものは、今後も機能する。

一方で、カラオケや話題、ネタレベルのコンテンツ、そして社会に露出する必要のない狭いコミュニティ(2chやニコニコがその象徴)上でのコンテンツほど、品質以上に「即時性」、「コンテクストへの非依存性」、「会話の誘発性」、「突っ込まれビリティ」などの価値が上昇していく。結果、コミュニケーションの踏み台にすぎないコンテンツでは、品質の価値が限りなく0に近づいていく。そういう意味で脳内メーカーとかは象徴的だった。場合によっては、今後は「品質」というのが、表層の精緻さからコミュニケーションを誘発させる装置としての完成度という意味へと変貌してくのではないかと思う。

なんていうか、しみじみと頷けるエントリだった。
コンテンツに「品質」が求められる領域、というのは、これから、どんどん狭くなっていくのではないかとは、前々から思っていたわけだけど……。
コンテンツを供給側としては、これは、熟考を要する問題だったり。