日本語が亡びるとき

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

いやはや、困った。
この本のなかで一番共感できたのは第一章の、世界中の作家がアイオワの大学に集まり、「しばらく普通の大学生」として生活するくだり……で、後半にいくに従って、だんだんと共感も肯定も出来なくなっていく。
この第一章だけは、本当にもう、「エッセイ」としてとても読みがいがあって、政治的状況や経済的に困難な状況下で、それも、かなりぎりぎりの生活を送っていても、なおかつ「書くこと」をやめることが出来ない世界中の作家たちの様子を読んでいると、「作家の業」とでもいうべきものを感じて、ぐっとくるものがある。
だけど、その後はねぇ……。
一つは、この本で主張されるような内容を「説得力を持って」書くには、この著者の知識は少し偏重しているし、視野も狭かった……ということが、わたしのような素人にもわかってしまうほどに、「内容が薄く」、従来からいわれていた「危機論」のくり返しであり、新鮮味もない……ということ。
もう一つは、特に「芸術」とか「文学」をことさらに美化・神格する価値観が、わたしの価値観とは、とうてい相入れない……ということ。
日本文学も、あるいは日本語も、このままでは亡びるのなら、亡びてしまえばいいのだ……と、わたしなどは、本気でそう思っている。
たとえ、普遍的な価値がなかろうとも、あるいは、ごくローカルな読者しか存在しない言語であろうとも、書きたいやつは書き続けるし、読みたいやつは読むのである。そんでもって、何らかの要因で滅ぶべきときは、どんなに慌てふためいても、滅ぶ。
人にせよ国家にせよ言語にせよ文化にせよ、永遠不滅のものなんざないのである。
たとえば、今すぐ日本全土が沈没するかなにかしちゃって、日本人が世界中に散り散りになり、国家としての日本、国語としての日本語が消失したとしても……数十年から百年以上の間は、日本語を書いたり読んだりする人は、消えないだろう……と、本気でそう思っている。
さらにいうと、細々と日本語に接し続ける一部の研究者を勘定に条件を限定するのなら、数世紀単位の命脈も望めるはずでしょう。日本語ので書かれたコンテンツは、今の時点でも、それだけのポテンシャルを持っている……と、わたしは判断している。
そう思うのは、わたしがこの本の著者とは違って、芸術至上主義、文学至上主義ではないからかもしれないが……読んだり書いたりされる言語としての「日本語」に、芸術性や文学性をことさらに望んでいないから、かもしれないが。
話しが逸れたか。
この本の内容で、とうてい頷けない部分を、さらにいくつかあげていく。
まず、「近代以降の日本語」自体が、かなり人工的な言語である、という意識がかなり希薄であることが……もっとぶちまけて言うと、「近代文学」の過大評価が気になった。というより、それ以降の日本の小説を、あまり読んでいないんじゃないかな、この人。
無尽蔵に生産・消費される、「エンタメとして発表された小説」の中に、世界レベルでも通用する作家がダース単位で輩出してきている、ということ。それを「文学」というカテゴリの物差しで一律に測っていいのかどうかは、ちょっと疑問なのだけど……村上春樹吉本ばななは別格にしても、その他にも英語やその他の言語に翻訳され、高い評価を得ている作家はすでに多くいるし、これからも増えていく傾向にある。また、翻訳されない(されにくい)作家の中でも、かなりレベルが高い人も、それこそダース単位であげることができる。
「近代以降」の日本の作家も、世界レベルでみても、決して低い水準にはいないと思うよ。まじで。
で、これら優秀な著者たちは、必ずしも、この本でいうところの「二重言語者」ではない、ということ。もちろん、英語かあるいは別の「非日本語」に堪能な作家も、決して珍しくはないけど、ほとんど日本語しか読み書きできない作家も、珍しくはない。
また、「国語」と「普遍語」云々の話しも、どっかで読んだような内容ばかりで……しかも、微妙に現状と食い違ってきているような部分も、あるような気がする。
「知性のある・なし」と二種類以上の言語を駆使できるかどうか、という能力とは、少なくとも小説の世界では、あまり関連がない。
あと……文学至上、芸術至上のこの人の価値観の中では、「熱心に日本語を学ぼうとする」人種が今現在、世界中にいる、ということが、視野に入っていないのだろうな……。
まあ、そういう「日本語熱」に取り憑かれた人びとというのは、往々にして、マンガとかアニメとかゲームとか……つまり、日本のポップカルチャーを、日本語のまま楽しみたい層のことをいっているわけですが……たとえ、そうした崇高ではない、卑近な動機であっても、決してバカに出来ない人数の人々が、熱心に日本語を覚えようとしている、という事実は、覆しようがない。その熱意が、決して「文学」や「芸術」への傾倒から由来するモノではない……という事実も、肝に銘じるべきことでしょう。
特に終盤にいくにしたがって、この本では「インターネットを介して、英語が普遍語として世界中を浸食していく」という主張を繰り返しているわけですけど、また、そうした側面は、アカデミックな場やビジネスの場では、決して否定できないプレッシャーとなっていることも、間違いではないでしょうけど……。
逆に、英語以外の、非欧米圏の言語のエスニーな言語による情報が、ネット発達によって、従来とは比較にならないくらい、低いコストと短い時間で広範な範囲に伝播するインフラができつつある、ということもいえるので、「実質的な公用語」のプレッシャーのみを強調しすぎるのも片手落ちかな、という気もします。
文字コードは日々整備されているわけだし、時間が建つにつれてマイナーな言語や文字も、ごく普通にネット上で扱えるようになる。少なくとも、そうなるべく活動している人々が現にいる、という事実は、無視するべきではない。
文学や芸術によらず、それら、マイナーな文化圏から発祥してグローバルな範囲に影響を与える、というような例は、これからいくらでも、散発的継続的に現れてくるでしょう。
ネットとは、良くも悪くも双方向的なものだ。技術の進歩は、言語、文化、経済その他の「グルーバススタンダード」という圧力を強めると同時に、多種多様な文化や価値観の並列化も推進している……という視点が、この本には、すっぽりとぬけ落ちている、という印象を、わたしは持ちました。
そういう視点から見てみると、「普遍語として英語」以上に「日本文学」の脅威となるのは、むしろ、「日本発のポップカルチャー」なのではないか……などとも思う。いや、まじに。
全体の論調からいっても、自説を慎重に検討せずに断言している「不用意さ」が散見されているし、この本で主張されていることを鵜呑みにするのは、あまりにもナイーブな態度というものだ……とも、思う。
ハチントンの「文明の衝突」くらいはわたしも読んでいるけど、あれを読んだときと同じような感覚を、この本からも感じました。
つまり、視野の狭さへの無自覚さと、自説にたいする無邪気に確信する態度、自分の価値観を絶対視して疑わない偏重さ……ということを。
おそらく、この本で書かれている、つまり挑発的にタイトルにされている「心配」を、この本の著者は本気でしているのだろう、とは、思う。
けど……その割には、学問的な厳密さを、あまりにもないがしろにしすぎていて、その説は、説得力に欠ける。
大仰なタイトルに反して、この本は、「作家が本業の合間に書いた、軽いエッセイ」程度の扱いがふさわしいのではないか?
以下に、この本で主張されるている事項に対して、的確につっこみをいれているエントリーをリンクしておきます。
・例の本(書評というか感想文)@思索の海
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20081110/1226307096
水村美苗日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む。@海難記
http://d.hatena.ne.jp/solar/20081111#p1
これらのエントリーを読んで、「この本に違和感を感じたのは、わたしだけではなかったのか」と、安心をしました。
不思議なのはむしろ、この程度の「エッセイ」に対して、梅田氏とか小飼氏とかがいち早く反応し、「必読書」扱いして無条件に勧めていること、ですね。
ビジネスとか技術とか現場では、それだけ「普遍語としての英語」の圧力が、しゃれにならない……ということなのだろうか?
それとも、わたしが重要な部分を読み落としているだけなのか?