ディスコミュニケーションを自覚した先にこそ、本当の言葉がある?

「今この愚かな時代にブログで書くということ」
http://noon.serio.jp/2007/05/post_78.html
というエントリーより引用。

言葉とは、何一つ伝えることができないという絶望の中でのみ、光を放つものではなかったのか。あらゆる場所につながり、あらゆる人間と即時的に会話することを可能にした電子メールシステムをさらに進化させたインターネット空間は、人間のすべてを光の下にさらけ出したのではない。逆だ。

インターネットは人間の要素を即時的に公開可能にしたことで、私たちが絶望的な存在であるという事実を隠蔽し、悲しみや苦しみが不可避的に存在してしまうのはなぜかという根源的な疑問を持つ機会を人から暴力的に奪い、あらゆるものがフラットであるかのような嘘を日々ばらまき続けているのである。それはほとんど悪意に満ちたディファレンス・エンジンであり、見えざる何か超越的な力を感じるほどだ。

私は一年前、「何のために書くか」というエントリを書いた。そこで私は人を書くという行為に走らせるものは痛みであり齟齬であり、それは個人的な痛みを出発点としてもかまわないが、あくまでもそれは世界を分光するための方法としてでなければならない、と書いた。

ブログで書くということは、そもそも痛みすら凡庸化されテンプレート化され、「コミュニケーション」という名前の同語反復付和雷同が様々なコメント欄で繰り返され、「バカ」や「マヌケ」といった言葉を使うしか能がない教養とセンスのないブロガーたちがあたかも何か読むべきことを言っているかのように誤読される空間、書評という名の感想文を広報活動の道具としてしか使うことができない知性のない世界で、自らの見たものについて誠実に、真摯に語ろうとする試みであるほかない。

しかしそれが果たして可能だろうか?

いまブログが直面している問題は恐ろしく根源的なものだ。すなわち、書くことはいかに可能か。戦時中、敗戦後、高度成長期、バブル、失われた10年、そして現代。どのような時代においても書くことは、それぞれの時代に見合った困難があったことは、記録から判断すれば間違いない。だが私たちの困難はこの時代を生きる私たちだけのものであるはずだ。

そしてこの場違いなブログに、セックスと文学を初めて持ち込んだセックスブロガーnoon75はこう考える。いま私たちがブログの持つ諸問題について徹底的に、十全に考えぬくことが、私たちの倫理にとって必要なことであり、そしてインターネットが隠蔽する血なまぐさい世界の姿を白日のもとにさらけ出し、あらゆる次元で再生産され続ける嘘とごまかしとペテンに満ちたブロゴスフィアをその内部から食い破ることが、私たちブロガーのやるべきことであるはずだ、と。

セックスブロガーnoon75さんは、とてもまじめなひとなんだな、と、おもいました。