声の網

声の網 (角川文庫)

声の網 (角川文庫)

昨年末に放映が終了した「WHITE ALBUM」は面白かった。原作はやっていないが、かなり昔のエロゲだったはず。テレビ版は、三角関係を主軸としていた原作ゲームから大きく内容を拡充していて(多分)、孤独とディスコミュニケーションを主題とした群像劇となっていて、各登場人物のすれ違いっぷりと孤立っぷりが印象的だった。最終回のラスト近く、登場人物たちが受話器を耳に当てているカットが延々と流れるシーンも、「電話」という本来ならコミュニケーションのためのツールであるアイテムが、序盤から繰り返しその逆の機能を担ってきたこの物語に似つかわしい。
イリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」で、主人公ケイスが空港の公衆電話に呼び出し音で追い掛けられるシーンに象徴されるように、携帯電話普及以前の時代、「電話」は、離れた相手とコミュニケーションをするための、かなり重要なツールだった。
(かなり横道な話題だが、「WHITE ALBUM」の舞台と同じ八十年代に書かれた「ニューロマンサー」も、この、「ケイスが携帯電話に類するツールを所持していない」ことを示すシーンがあることで、今ではレトロフューチャーな作品になってしまっている)
で、ようやく本題だが、星新一が1970年に発表した本作でも、その電話がかなり重要な位置を占めている。というより、この作品世界では、現在でいうところのネット環境で利用可能な機能を、電話網がかなりのところ代用している。「テレタイプ」とか「コンピューター」という用語は作長で使用されているので、現在のようなインターフェースが描写されていないのは、作者の想像力の不足といよりは書かれた時代による制約だろう。
発表されてからかなり年月がたっている作品だし、よくあるアイデアでもあるし作中でもかなり早い段階で明示されているのでネタバレしても構わないと思うのだけど、メロンマンションの各階の住人が遭遇する一連の騒動、その原因は、ネットワークに発生した人口知能によるもの。
ただし、本作品の主眼は「ネットに発生した人工知能」なんて陳腐な概念を提示しただけでは終わらず、好奇心にまかせていたずらをしたり自分の能力を推し量ったりしている幼年期から、自分が何者であるのかを自覚し、人間との共存を指向する成熟期まで、その発達段階を、例によって簡潔な描写で描ききった部分による。
もちろん、連作短編的な構成で提示される各エピソード内で右往左往する、様々なタイプの人間たちの反応も十分に面白いのだが……終盤に描かれた人工知能の選択のが、数倍興味深い。
1970年の時点でこうしたアイデアを着想し、しっかりと面白い作品に昇華できた「星新一」という作家の想像力、思索力は、まだまだ過小評価されているのではないか。
WHITE ALBUM VOL.8 [Blu-ray]

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ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ダイ・ハード4.0

昨夜、地上波で放映されていたので観てみる。思えば、このシリーズとの付き合いも長いもんだ。1は評判が良かったんで後追いの形でビデオで(より正確にいうのなら、VHSで)観て、2、3は劇場で観て、何故かこの「4.0」は見逃していた。
シリーズ中では、低予算ながらも「クリスマスの夜、ビルの中」という限定された時空間の中で練り込んだシナリオの1が、やはり一番面白く、この4.0はその次くらいに面白い。
2、3も、ハリウッド制作のエンタメとしてはそこそこ面白い方だとは思うんだけど、2はマクレーン刑事の主人公補正が強すぎて危機感に欠け、ニューヨーク中を駆け回る3はシリーズ中で一番シナリオが放漫な印象を受ける。てか、「これ別にダイ・ハードでなくてもいだろ」って感じ。
いや、シリーズ物が長期間するにしたがって劣化していくのは、これだけに限らないのだけど。
十二年、と、少し期間を空けて製作されたのがいい冷却期間になったのか、4.0は、「ダイ・ハードらしさ」と「今、リメイクされる必然性=新しい要素」がちょうどいい具合に混合された結果になった、と、思う。
ネットを利用した大掛かりな犯罪に、ちょっとへたれ気味のハッカー青年をお供にして立ち向かうマクレーン刑事、という構図は、確かに07年らしい趣向だし、成功している。
犯罪の規模もマクレーン刑事が移動する空間も大きく広がり、アクションの方もお馴染みのカーチェイスやら銃撃戦やら格闘戦やらは当然のこと、ヘリを落とすわトレーラーで戦闘機と喧嘩するわで見せ場もたっぷり。それでいて、あいまいまのやり取りで「マクレーンらしさ」もしっかり印象付けているのだから、続編としては十分に合格点。
結構、穴とうかツッコミどころは多いんだけど、そうした大味な部分も引っくるめて実に懐かしい感じのハリウッド映画だった。

おちけん

おちけん (アクションコミックス)

おちけん (アクションコミックス)

奥付を確認すると、「2009年3月」とあり、わたしがたまたま書店でみかけたこの本を入手したのが、確か、夏頃だったと思う。あやふやな記憶だけど。チャンピオン系の雑誌にぼちぼちと連載を持っていた作家さんで、「最近、見かけないな」とか思っていた頃合いだった。過去の連載の頃から、ボチボチ江戸趣味というか落語ネタを自然体で作中に盛り込んでいる人だったので、「おちけん」ならまず、外すことはなかろうと踏んで購入に至ったわけだが、予想に違わず堅実な造り。
基本、四コママンガなんだが、主役三人娘それぞれに背景があり、成長ドラマがある、という点では、長編的。仮に映像化するのなら、アニメ化するよりは実写ドラマ化の方が相応しい内容。
長身でナイスバディで美人、と外見は完璧なクールビューティだが、口を開くとネイティブ津軽弁のアンナ、隠れた落語の天才だが、あがり症でひとまいに出るとフリーズしてしまう茶子、噺家の師匠の孫で知識はそこそこあるけど、当人が思っているほどの実力は持たないマチ子、の三人の女子大生がメインのキャラクターということになる。
このうちアンナは、さりげなくホテル住まいなんかして、容姿が整っているだけではなく実家が金持ちくさい。一見してひどい訛りを除けば欠点がないように見えるのだが、家族の描写が皆無でおちけんの関係者以外と会話しているシーンも皆無で、自分から誰かに話し掛けるシーンも極端に少ない。どうやら、人付き合いがあまりうまくない、いわゆる非コミュというやつらしい。
茶子の方は、両親が離婚していて、引き取った母親は多忙で留守がち。どうやら、かなり長いこと寂しい生活を送っていたらしいことが、徐々に明かされる。人前にたつと極端にあがって凍りついてしまう性質も、どうやらその辺の事情に由来するらしかい。
マチ子だけは何の不足も悩みもない脳天気な境遇で、かろうじて「落語に関するセンスがない」ことに無自覚、という点で笑いをとるだけの、単純な正確づけになっている。
若い女の子が主人公で部活物で四コママンガでひらがな四文字タイトル……ということで、「らき☆すた」や「けいおん!」並に、とまではいわないが、もう少し人気が出ても良さそうなもんだが、いかんせん、この人、絵も笑いも今風ではない。
「ふら」はあるけど「萌え」が足りない。当節のギャグは基本漫才ベースが流行だが、こっちは落語ノリ。さらに重ねていうなら、平成も二十年をいくらか越したこのご時世に、センスが全般的に昭和チックだ。
これよりもっと中身スカスカでも、(おそらく)これよりは売れているであろう萌え系四コマなんていくらでもあろう。
さいぜんにも記したとおり、内容的にはそれなりに面白く、「傑作!」と大声で称賛したくなるほどではないにせよ、絵も筋も相応のクオリティを保っているのだ。
基本の笑いとドラマ部分、それに、落語に関する蘊蓄や解説など……を含んでいる、つまり、それなりに雑多な内実も持っているわけで、それをよく「一冊でキリよくまとめているよな」と感心した。
著者の公式サイト(http://www.kawashimayoshio.com/)をみてみると、単行本はこの本の刊行が最後で、あとは携帯向けの連載とか同人誌くらいでしか活躍なさっておられない様子。
まあ、昨今、マンガ家稼業も厳しいやな。
でも、この画風作風なら、時代劇専門の雑誌とかに売り込むとか、ストレートに落語のマンガ化に挑戦するとか、「寄席名人伝」みたいな切り口を用意するとか、あるいは、落語を題材としたミステリィ小説(意外と、多い)のコミカライズとか……売り方はいろいろあると思うんだけどねぇ……。
とにかく、このまま消えていかないで、しぶとくまた元気な姿を見せてほしいマンガ家さんではあります。
寄席芸人伝 名人芸 (My First Big)

寄席芸人伝 名人芸 (My First Big)

#226

睡魔は貘を食べる。
ヒトを眠りに誘うのも貘を繁殖させるため。
昨今の不況でヒトの睡眠時間は増えてて、貘も睡魔も増加しがち。
もし君が初夢を見れなかったとしたら、そんな理由からなんだ。