しゃべれどもしゃべれども

原作は既読だったんで、「あの一人称の軽快さを、映像でどう表現するのかな」という興味で見に行った。
配役は、主人公のちょっとイケていない二つめの落語家に国分太一、ヒロインの「黒猫」に香里奈、主人公の師匠に伊東四朗、主人公の祖母に八千草薫、と、ある意味、隙のない布陣。
結論から言うと、この映画は全編、「むっつり顔」映画ないしは、「むすー顔」映画であった。何しろ、主要登場人物がほとんどのシーンでむすーっとしている。国分太一のぎょろりとした目玉とへの字口の顔、それに、香里奈の、造作は整って入るんだが。無理矢理作っているという風な仏頂面が長々と拝めます。
いやまあ、元々、そういう原作なんだけど。
原作にはいたがこの映画では割愛された主要キャラクターというの二人ほどいて、主人公の従兄弟の優柔不断青年と、師匠の弟弟子の人が、この映画ではばっさりと割愛されている。前者はともかく、後者に関しては、「落語家」として主人公や一皮剥けるのに、それなりの役割を果たすわけで、「青年落語家の成長物語」としてみると、この人のエピソード群がごっそりとなくなったことは、かなり重要だと思う。
つまり、この映画では、原作の中の「主人公の芸の前進」という成分よりも、「人間関係」の方に、重点を置いたわけやね。脚本としては、そっちの方がすっきりとするのはわかるし、それに、監督の資質にもあっていると思うので、この変更は、それなりに納得できる。
ただし、この変更は、結局のところ、原作の中の「芸道」についての成分も、ごっそりと削ったことも意味する。確かに、ドラマとしてみると、それなりにすっきりした仕上がりになっているけど、結局、主人公とヒロインの色恋沙汰「だけ」に修練させていく結末は、この物語が本来持っていた豊穣さをなげうって、底の浅いものにしたのではないだろうか……などいうことも、思ってしまう。
落語は……やっぱり年季の入り方からして違うというか、伊東四朗八千草薫の「語り」が一番面白かった。特に、八千草薫。台所仕事とか庭仕事とかしながら、特に気負った様子もなく、たんたんと演目を語り出す自然さ、語り口のなめらかさは、やはり凄い。