ららら科学の子

ららら科学の子
矢作 俊彦著
文芸春秋 (2006.10)
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1968年、学生運動の絡みで殺人未遂の罪に問われた青年が、中国に密出国して、三十年ぶりに帰ってくる。そして、変貌した日本に戸惑ったり順応したりしながら、しばらく滞在し、再び広州に戻る。
いってしまえば、ただそれだけの、実にシンプルな筋立てだか、一冊の中にぎっしりとディテールが詰まっていて、そうした子細がいちいち主人公の心情に結びついているので、ひどく「読みで」があった。
主人公は二十世紀末の東京をさまよいながら、三十年前の日本と、三十年過ごした中国の農村での暮らしを絶えず回想する。記述された量でいえば、主人公が見聞する「現在」を文章の量より、何かにつれて主人公が回想する場面の文章の量の方が、多いかのも知れない。
その意味では、主人公の「行動」よりは「内面」の記述に重点を置いた作品だ、ということもできる。
いくつか、印象に残った部分を書き留めておくと、「携帯電話」が重要な役割を果たし、中には、作中でかなり重要な役割を果たすのに、最後まで声だけしか出演しない登場人物もいる。また、最後、主人公が国外に「帰る」時、預けられた携帯を持っていってもいいか? と尋ね、「いいですけど、日本の携帯は外国では使えませんよ」といわれるシーンなども、象徴的な印象を受けた。
物語開始時、主人公にとって、携帯電話は未知のものであり、当然、使い方もろくにわからない。しかし、終盤では、日本で知り合った人たちと気軽に連絡をとれる道具として、心理的にかなり重きを置くようになっている。
また、主人公の中で、かなり大きな存在である二人の女性、日本脱出時にまだ小学生だった妹と、中国で一緒に暮らしていた妻とが、回想や電話越しだけの登場で、作中では、最後まで主人公と対面することがないのも、印象的だった。
この二人は、その後の主人公の人生をかなり方向付けている重要な人物なのだが、各局、「主人公からみた人物像」しか、提示されない。
ただ、不満点もあって、ベトナム戦争時、養子として日系アメリカ人の家庭に引き取られた傑はともかく、冒頭に登場してしばらく姿を現さなかった瀬島が、終盤近くに「自分は、日本国籍を持つ台湾人だ」と主人公に告白する展開は、どうか? 今更、国籍やらナショナリズムやらを振りかざすまでもなく、「寄る辺なき人々」の心許なさは、十分に表現し尽くされていると思うのだが……。
主人公が生きた、二十世紀後半、という時代を活写するには、そうした要素も必要不可欠だ、といわれれば、それまでなのだが。